海 外 ド ラ イ ブ

大地に吸い込まれてしまいそうな直線路、天空へ駆け上がるようなワインディングロード

グッとアクセルを踏み込んで進む、その先には ・・・

このブログのスタートは 5/18/06 付の「きっかけ」です。 海外ドライブの実用的な

TIPSは主に前半部分に集まりました。  ご参考になることでもあれば幸いです。

Bon Voyage & Safty Driving!

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受難のトヨタ - 2

2010-03-20-Sat-00:05
この件について述べてから 1ヶ月、次第に状況が明らかになってきました。 米国 ABC テレビによる「急加速の原因が電子制御装置の欠陥」との報道は「操作された実験」を下に行われた。 「プリウスがサンディエゴハイウエイでスピードが落ちなかった」とのニュースは全くの狂言だったようです。

まず、「トヨタ」がかくも厳しいバッシングを受けた背景をみると、世界最大の自動車メーカー GM が経営危機に陥り、その再建の為、巨額の税金を投入する以外選択肢が無かった、その GM の凋落に合わせたかのように、トヨタがトップの座に上り詰めた。 納税者意識の高い国民性から「税負担の元凶がトヨタ」とのシンボル的存在になってしまったようです。

新車で 5 万ドルもする高級車の代名詞であった「レクサス」のユーザーがアクセルの不具合によって死亡してしまった事実と、その対応・対策が遅れたことで、いっきにトヨタが敵役にされたのでしょう。

雪対応用の分厚いフロアマットがアクセルに引っかかってアクセルが戻らなかった、との報道が先行してしまいましたが、トヨタにとって真の問題は「アクセルペダルそのものの欠陥」だったのではないでしょうか? しかも、同ペダルを供給するのは米国の会社。 その会社との話し合いの遅れが、今回の騒動のキーポイントではないかと考えます。

「トヨタ」は外注先に厳しい会社だと聞きます。 しかし長期的展望で外注先を育てるのが得意な会社でもあるはずです。 「トヨタ」と「米国の外注先」の間の速やかな「意思疎通」と「共通認識の醸成」段階に、何らかの問題があったのではないでしょうか。

残念ながら、米国のマスコミに、この点へ踏み込む報道は見られないようです。 米国の製造業が抱える問題の一面が見られ、米国製造業再建へ一つの指針を示すいい例になるのではないかと考えるのですが ・・・。

ブレーキ優先のシステムは、世界レベルで標準仕様にすべきでしょう。 「トヨタ」も米国市場に参入を果たした当時を、もう一度思い返して欲しい。 最初は、米国車がオプションであった装備を標準装備にして競り合ったはずです。 「米国車が標準装備でないから」との言い訳が通用しないのは身にしみているはずです。

傷ついた「トヨタブランド」を地道に修復していかれることを期待しています。

☆ ☆ ☆

受難のトヨタ 2-20-10

かようなブログを書いている限り、今回の「トヨタ車欠陥問題」を無視することもできないでしょう。 実は、「トヨタ」と「米運輸省高速道路交通安全局 (NHTSA) 」のバトルは相当以前から、マスコミ内部では囁かれていたのではないかと思われます。 唯、その欠陥が何なのか詳細が分からず、ニュースにはなかなかなりませんでした。

トヨタと言えば、もうズッと昔の話になるのですが、二つのことが思い出されます。 最初にトヨタが自社の車を米国に持ち込んだ時、全く相手にされず、米国進出の最初の野望は惨めな結果に終わりました。 ただ、この苦い体験があったればこそ、それ以降、日本の車は世界基準にたどり着き、アメリカで走る車の 3 分の 1 が日本車で占めるまでの地歩を固めることができたのでしょう。

いま一つは、「日経ビジネス」が「トヨタの生産管理システム(いわゆる 'カンバン')を正面切って批判する記事を掲載し、それ以降しばらく「日経ビジネス」誌上にトヨタの広告が載ることはありませんでした。 これも、今となっては、成功の生産管理システムとして高く評価されています。

市場を熟知し、'もの作り屋' としても世界をリードする「トヨタ」が、何故このような受難にあっているのでしょう。 世界一への野心が、慢心を生んだと一言で片づけるのも、たいそう気の毒です。

最初に出た問題、厚いフロアマットでアクセルペダルが戻らない、のは、日本でも北海道など寒冷地で十分経験しているはずなのに、やはり「どうしてもっと早く対策をとっておかなかった」のか残念でなりません。 フェイルセーフの鉄則から、ブレーキペダルがアクセルペダルに優先させるのは当然ですし、おそらく「世界基準」になるのでしょう。

次の「アクセルペダル」自体の欠陥は、外注先の米国のメーカー製品に問題があったようですが、国内のみならず、海外での外注先に手をとり足をとるような徹底した指導を行っている現実を、目のあたりにしている筆者には、想像も及びませんでした。

そして、今問題になっているのは電子制御装置 (ETCSi) です。 低速でのブレーキのタイミングが遅れる(ハイブリッド車の場合)、それに米国では高速時に急加速が起こるといった声がユーザーから出ているようです。 更には、パワステまで。

ただ、これに対して 16 歳の時から毎日乗り続けている米国のユーザーに「フィーリング」の問題だと一蹴するのは、むろん NG でしょう。 「アクセルは踏むだけスピードを上げ、ブレーキは踏むだけ止まる」のが基本なのです。 又、「ステアリングは、低速ではしなやかに、高速では堅く」でしょう。

車は、パソコンのようにプログラムソフトが直接作動しているわけではありません。 あくまで組み込まれたメカを適切に作動させるのが「電子制御装置」なのです。 当然、電子制御は正常だというだけでは回答にならないのは明白です。

09 年以前のカローラは海外で毎日乗っていましたが、さほど不自然には思えませんでした。 ただ、カローラ以上の上級車を運転した時、ステアリングが柔らかすぎて戸惑ったことはあります。 その時、高速道でタバコを吸いながらの片手運転など、チョッときついかなと感じました。

米国で車を運転していると、日本ブランドの車はピカピカに磨きあげられ、奥さま(女性)が運転されているのをよく見かけます。 反対に、ご主人の通勤は自国車で、何時車が洗われたのかと思えるほどの状態です。 即ち、日本車は大切な伴侶や子供たちを乗せるファミリーカーなのです。 ファミリーカーの不具合に、米国人がとりわけ神経質になっているのも、お分かりかと思います。

その上、自国車メーカーには巨額の税金がつぎ込まれ再建中です。 言ってみれば、自国の市場で自国車を駆逐してきた元凶が日本ブランド車なのです。 だからこそ、トヨタは細心の上にも細心の注意をはらって、市場からの声を一つ一つ謙虚に受け止め、遅滞のない対応をとるべきだったのでしょう。

進めは、青? 緑?

2010-01-20-Wed-00:06
最近、次々に電球の信号機から LED の信号機に代わっています。 確かに、寿命も長いし、消費電力量も格段に低いとなれば、全て LED 機に取り換えられることになるのでしょう。 深夜に車を運転すると、東京の街の信号機が多いことに改めて思い知らされます。 一つの交差点だけでも一体いくつの信号機が設置されているのでしょう。

以前、LED ディスプレーの仕事に関係していた時は、赤と緑の LED しかありませんでした。 即ち、赤と緑、それに赤と緑を合わせたオレンジ色のわずか 3 種類です。 それでも、まだ駅や電車の案内ボードには使われていますね!

もしも「進めの信号」が緑色であれば、もっと早く LED が信号機に採用されていたはずです。 しかし、よく見ると実際は「緑っぽい青」のようです。


ようやく青の LED が開発されて、光の三原色、R、G、B (赤、緑、青)が揃いました。 三色合わせた白色を含め、望みの色が出せるようになったわけです。 一昨年のクリスマスシーズンくらいから、イルミネーションも電球色から、白色や青色を多用した LED に代わっているようです。

ちなみに、一般的なパソコンでは、三原色それぞれが濃淡で 255 階調に分けられています。 その多様な組み合わせで忠実に色が再現されているわけです。

さて、LED の信号機の他に、狭い道から本通りに侵入するところにある「一時停止」の表示板にも LED が使われています。 これは、先端に太陽電池が取り付けられていて、昼間に蓄電し、夜には三角形の縁に並んでいる赤い LED を点滅させています。 勿論、外部から電気を取り入れる必要もありません。

世はいよいよ「エコの時代」です。 良いアイデアは積極的に採り入れて欲しいものです。

☆ ☆ ☆

Hybrid からの脱却 7-21-09

売れる車の大半がハイブリッド車になっているようです。 未だ筆者にはハイブリッド車のハンドルを握るチャンスがありませんが、路上で走る「ホンダ インサイト」などを見る限り、発進のアクセルも悪くありませんし、コーナリングもキビキビと一般車に比べさほど遜色は無いように思われます。

確かに「エコ」という言葉の響きは心地よいのですが、原材料、生産工程を含めてトータルで見ると、はたして真にエコになっているのでしょうか? ハイブリッドの他に、家庭電源でチャージ出来る電気自動車の進化という選択肢もあるのでしょうが、やはり、燃料電池で動く車が目下のところ最終目標になるのではないかと考えています。

先日、テレビに「ホンダ」の燃料電池車開発の責任者が出演されていましたが、別に「エコカーを開発しているわけではない」との力強い言葉を聞き嬉しくなりました。 そう、彼らは全く新しいコンセプトで本格的な「次世代の車」を開発されているのです。

地球環境を守るという人類の大きな目標の中で、21 世紀は化石燃料からの脱却が最大のテーマの一つであることは間違いありません。 実際にどのように進化していくのか、この目で見てみたい思いは強いのですが、到底無理な話。 元気で賢明な次の世代に託しましょう。

情報収集・通信方法・人的交流の手段については、おおよそ、将来の予見はできるようになってきたと考えています。 住居、事務所、工場など動かない場所では単純化され、動力線(電気)と通信線(光ファイバー)の 2 本でほぼ事足りるのでしょうが、動く物体に関しては、その「動力」の開発だけが文字通り「ハイブリッド」の段階で取り残されています。

そうハイブリッドは新しい遺伝子を生み出すまでの橋渡しにしか過ぎないのです。

☆ ☆ ☆

木炭自動車 2-23-09 

筆者が実家で生まれた後、父の任地に戻る時に乗ったのが「木炭バス」だったと思います。 勿論、本人は知る由もありませんが、後から両親から聞いた話では、バスはたいそう混雑しており、父は母を何とかバスに押し込んでくれたようですが、父本人は同じバスに乗れず、父がしっかりと持っていてくれた私のオムツとも離れ離れ。

しかし、田舎のバスですし、燃料不足の時代、そんなに頻繁に次のバスがあるわけもありません。 知らない田舎町で、父の到着まで長いこと待たなければいけなかった母はさぞや心細かったことでしょう。

先の大戦の直接の開戦動機は世界各国から受けた経済制裁ですから、当然、石油の入手には困難を極めたはずです。 そこで生まれたのが「木炭自動車」というわけです。 木炭もしくは薪を燃やして一酸化炭素 (CO) を取り出し、エンジンに送り込んで動力にしていたのです。 勿論、排出されるのはたっぷりの CO2! 今こんなエンジンが使われていたら目を剥かれそうです。

エンジンが前に付いている、いわゆるボンネットバスですが、筆者の記憶では、ちょうどボイラーのような円筒形のものを垂直に立ててバスの後ろにくっつけていました。 その下の方に、木炭や薪の焚口がありました。 今では想像も出来ない程ののろいスピードだったはずですが、それにもましてエンジンを起こすのに、どれほど時間が掛ったのでしょうか?

普通のガソリン車やディーゼル車ですら、前部のバンパーの真ん中に穴が開いていました。 そこにクランクハンドルを突っ込んで、エンジンのクランクシャフトを直接回そうというわけです。 クランクハンドルは車の標準装備品で、どの車のトランクルームにも入っていました。

そうそう、あの観音開きの初代トヨタクラウンでも、バンパーのチョッと上に「クランクハンドルを差し込む穴」があったはずです。 その車のスピードだって、下り坂でようやく 100 キロのスピードに達したのですから。 スピードメーターが 100 キロを指した時、一緒に乗っていた友人全員からワーッと歓声が上がりました。

☆ ☆ ☆

ガソリン料金値下げ? - 2 4-28-08

前項で掲載した写真の中で、アメリカのガスステーションに表記されている「1 ガロン 1 ドル半ば」が気になって、もう少し、この話題を続けることにしました。 今となれば、「こんな時もあったなあ!」と記憶を甦えさせるだけなのかも知れません。

今月 22 日の "nikkei.net" の記事では、米国でも 1 ガロン 3.5 ドルを遥かに越えており、1 リットルで換算すると、実に 110 円台に突入する状況のようです。

日本では、僅か 1 ヶ月の夢を破られ、再値上げになる雲行きですが、その間の原油そのものの値上がり分を含めると、レギュラーでも、1 リットル 160 円を超すことになってしまうでしょう。

政府は、車移動を抑制し環境保護にも叶っていると、筆者の考えとは全く逆の説明をしているようですが、一体どこに、何の目的も無く車を動かしている人がいるのでしょうか? 地方では、車以外、移動の手段が無いのが現実の姿です。

建設コストなど一向に考えることもなく、巨大な橋で谷を繋ぎ、トンネルを掘り、野生動物のけもの道を分断して、山中深く出来上がっていく新しい高速道こそ、環境破壊の元凶ではないかと、筆者は考えてしまいます。

しかも、下の一般道を辿ってもいくらも時間が違わないとなったら、収入の確保もままならないのは当然でしょう。

政府の重要施策の一つに「地域活性化」があったはずです。 車燃料の値下げは、既に述べた、地方で生れる農産物の流通コストの削減、女性雇用の促進のみならず、二次産業の地方への分散化にも大いに貢献出来るはずです。

「車燃料価格」の問題は、中央より地方の方が遥かに深刻であることを知って欲しいと心から願っています。

☆ ☆ ☆

ガソリン料金値下げ? - 1 3-29-08

正直、たいそうありがたいニュースです。 知らない土地で町を離れて長距離ドライブを始める前には、とりわけ燃料計が気になります。 チョッと減っているだけでも、おのずとガスステーションに向けてハンドルを切っているようです。

gas_station.jpg

ポケットにあったクチャクチャの 10 ドル札を出してお釣りが戻ってきた時、日本のガソリン代が途方もなく高いことを思い知りました。 その上、初めて日本に来た外国人には目が回りそうな高速料金! それに、車購入時のもろもろの税金 ・・・、まるで人を車から遠ざけようとしているのではないか、とすら錯覚してしまいます。

東京のような大都市の中心部では公共交通機関が発達しているので、車が無くても日常の生活にさして不便を感じることはありませんが、今回の値下げを本当に期待しているのは、地方に住む一家の主婦ではないでしょうか?

ここ最近の食料品の値上げに、燃料代の値上げ、家計を圧迫しているのは明らかです。 ご主人やお子さんを送り出した後、ご自身のパートの通勤も車なのですから ・・・ 

更に、ディーゼル車の軽油も一緒に下がるとのことですから、当然、流通コストも下がることになります。 暫定税率の廃止が、人をより職場に近づけ、商品も産地から更に消費者に近づくことになるのですから、日本の経済が活性化しないはずはありません。

環境保護の掛け声とは裏腹に、山間部を切り開いて出来上がる新しい高速道より、もうそろそろ、今ある道を効率的に、より安全に使うことを考えてみる時期に来ていると、筆者は感じています。

〈番外〉追憶の屋久島

2009-12-20-Sun-00:03
- この項、「古き良き屋久島」をこよなく愛した今は亡き父に捧げます -

父との思い出

父の仕事とはいえ、一家で屋久島行きが決まった時、殆ど街暮らししか知らない筆者と母のことを父は本当に心配したのではないかと思います。

ガスも水道も、その上、電気も無い暮らしにさすがに母は適応するのが大変だったようで、不順な天候と相まって身体の調子まで狂わせてしまったようです。 しかし、小さかった筆者は何とか言葉も通じあえるようになり、直ぐに慣れてしまいました。

父は父で深山に分け入ったり(仕事です)、無理やり漁船に乗せて貰って漁師さん達と一緒に一晩の漁を楽しんでいたようですが、時間を見つけては筆者の相手をすることも忘れませんでした。

実のところ、当時「縄文杉」という言葉はありませんでした。 公式には「大王杉」が屋久島一の杉と言われていました。 勿論、その奥にはもっと大きな杉があることは知られていたのですが ・・・。

今は屋久島の山中に住む人などいないのですが、木材伐採の盛んな当時は、現場に分教場が出来るほど多くの人々が住み、働いていたのです。 海辺に住む私たち家族より、更に劣悪な環境と低賃金で暮らす人々がいることを、どうしても筆者に見せたかったようで、父に付いてそこを訪れたこともあります。 そこで分教場の先生が相手していただいたと淡く記憶しています。

前述した、島一周の船旅や、鹿児島、屋久島往復の船旅にも父について行きました。 夏の夜行便、静かな錦江湾では誰もいない甲板に大の字になって寝ころぶと、天空の全ての星が地上に降り注ぐのではないかと勘違いしそうです。 島内では、大好きな肉や魚を味噌に漬け、それをリュックで背負いハイキングをしたこともありました。 飯葢炊飯が面白く、わざわざお米まで焚いて食べたのも、屋久島が初めてでした。 その後、中学一年生から仲間とキャンプ、10代後半から趣味の登山へと繋がりました。

正直に申し上げ、筆者は未だ「縄文杉」を見ていません。 山の怖さを知る父は小さすぎる筆者を、そのような山中まで連れていくのがはばかられたのでしょう。 立場上、何か問題が起こった時、私的なことで他の方に迷惑をかけるのを避けたい思いがあったのかもしれません。

しかし、実際にはちょっと足を踏み入れるだけで、裾に広がる広大な広葉樹林、その後ろには鬱蒼たる杉林。 苔むした岩が剥き出しの大地。 陽だまりの枯れ葉の上には無数の杉ん子が ・・・。 それを見て父が「これだけ元気に目を出しても、積み重なった落ち葉で、決して根は大地に届くことはなく、みんな枯れてしまう」と話してくれたことを、これは鮮明に覚えています。

本当にラッキーな一握りの杉だけが、何千年もかかって、あの杉の巨木になるのです。

本年も、もう残り少なくなりました。 皆様には良いお年をお迎え下さい。 And, Merry Christmas!

☆ ☆ ☆

プライベート水族館 11-20-09

通学した小学校は、集落のある側と川を挟んで対岸にありました。 学校のすぐ裏は長く続く砂浜で、海亀の産卵場所でもあります。 何せ雨の多い屋久島ですから、滞在した 2 年間に「番傘」を何本買い換えたのか記憶はありませんが、台風の時など橋を渡り終える前にダメになってしまうこともあったはずです。

天気の良い日は、集落側の公民館前の広場が子供たちの集まる場所になっていました。 土地の言葉がうまく使えない転校生でも、いじめも無く迎え入れてくれ、日が暮れるまで遊び、騒いでいた記憶が残っています。 大半が漁師の家で、夜、漁に出る漁師は昼間が睡眠時間帯ですから本当に静かです。 子供たちの騒ぐ声だけが集落全体に届いていたはずです。

唯、筆者は島全体が素敵な遊び場なのにすぐ気付いてしまいました。 地元の子供たちからみると、いつもの何の変哲も無いところなのでしょうが、街中で生まれた私から見ると、まさしく冒険の国に思えたのです。 最初の頃はは地元の子が付き合って付いてきてくれたのですが、つまらないとみえて、結局は一人で遊ぶことが次第に多くなりました。

トロッコ道を遡って、もちろん、山中の作業現場まではたどり着けませんでしたが、前述の大きな吊り橋が折り返し地点で、ヤマモモ、野イチゴ、むかごを探し出して食べながら戻ります。 肉桂(シナモン)の木の皮を剥がして香りを嗅いだりしたこともありました。

年上の子供たちは、川で釣りあげたまるでウミヘビのように大きなウナギを長い棒に巻きつけて二人で担いで追い抜いていきます。 自然薯を掘り起こす子もいたのではないでしょうか。

山に退屈すると、今度は海です。 嵐の海は怖くて到底近づけませんが、凪いでいる晴れた日は、裸足の足裏は焼けつくように熱くても、身体には心地よい海風があたります。 砂浜はあまり変化が無くて直ぐに飽きてしまいますが、ゴツゴツした大小の岩が海に突き出している磯は大のお気に入りでした。

岩をひょいひょいと飛び歩き回ります。 岩の上から北を望むと、海の中に開聞岳が突き出しています。 大きな岩には、いろんな形をした窪みがあちこちにあり、どうしてこんな高いところまでと思える、てっぺんの窪みにもチャンと海水が溜まっています。 その窪み一つ一つが小さな海なのです。 海藻が根付き、ウニ、貝、それに魚まで泳いでいます。

窪み毎にいろんな種類の海の生物が住み着き、飽きることがありません。 熱帯魚の水槽よりもずっと大きな窪みを岩かげで見つけ出すと、誰にも話さず、一人でそれを毎日見に行くのが日課になっていました。

☆ ☆ ☆

牛が引くトロッコ 10-20-09

さて、乗り物の話に戻しましょう。 林芙美子さんの「屋久島紀行」にはバスの話が出てきますが、私にはバスの記憶など全くありません。 まん丸い島ですから、山を取り囲むように海岸沿いのデコボコ道だけはあったはずです。 その道も、今は広くなり、舗装され、川を繋ぐ橋も立派なものに付け替えられているようですね。

遠出をする時は「歩き」、それ以外の選択肢を考えたことは無かったように思います。 一度だけ、島をめぐる乗合船 - 船と言っても手こぎ船をちょっと大きくしたエンジン付きの木造船 - に乗せて貰ったことがあります。 シケているわけでは無かったのですが、外洋特有の巨大なウネリがありました。

船がウネリのてっぺんに来たら、まるで船は空に浮いたよう。 反対に、ウネリの底では、回りは海しかありません。 そのまま海中に吸い込まれてしまうかのような錯覚に陥ります。 乗り合わせた人たちは、よそ者の筆者と筆者の父を除き全員ダウン、到着までグッタリと横になっておられました。

当時、屋久島には鉄路が二つありました。 北の宮之浦起点のものと、南東部、安房から山中に入っていくトロッコです。 いずれも、巨木を切り出し、トロッコで運び、埠頭で景山丸に積み替えて鹿児島に向かっていました。 切り揃えられた大木は一本ずつトロッコに乗せられ、何台も繋がれて、それを牛が引っ張っていたのです。 こちらは小さかったので、見上げるばかりの牛がとても逞しく思えたのですが、今考えると、やはり "何とムゴイ - 虐待" だったのは間違いありません。

積み出しですから、確かに港までズーッと下り坂です。 でも、帰りは荷は無くなったとはいえ、又、何台ものトロッコを引いて山に戻るのです。 さすがに、この牛機関車はすぐにディーゼル機関車にとって代わりました。 ただ途中には路肩の弱いところもあったはずですし、山中の橋はみな「吊り橋」です。 最初に乗った運転手が「グラグラ揺れる吊り橋が本当に怖かった」と話されていたのを覚えています。

山はこの「吊り橋」から、海は波に洗われる磯までが筆者のプレイグラウンドでした。 これは、今考えると "何と贅沢な" ということになってしまいますね!

☆ ☆ ☆

屋久島縄文水 9-20-09

ボトル詰めの水に「屋久島縄文水」があります。 コンビニのチルドケースの中にこれを見つけたら、チョッと高いけれど、やはり買ってしまいます。 最初に手にした時、一口飲んで直ぐに、「この水は以前飲んだことがある!」と感じました。 改めて小さな字で表記されている採水地を確かめると、私が住んだ部落の地名がありました。 しかも「深井戸」の水です。

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住んでいた家のすぐ横に、大きな深い井戸がありました。 そこからつるべで汲み上げる水に 2 年間お世話になっていたのです。 「一と月 35 日雨が降る」と言われているこの島の地下には、川の水量より遥かに大量の伏流水が流れているはずで、この清廉な水を得るのに深い井戸が必要なのです。

小さい頃、短期間の島暮らしでしたが、しっかりとこの水の香り - かすかな山苔の香り - を覚えていたのです。 他のブランドの水は全く区別出来なくとも、「屋久島の味」だけは忘れることが無いのでしょう。

このように豊かな水があるのに、水力発電所すら無く電気がありませんでした。 島を離れることが決まった後、ようやく取水装置が稼働し電球に灯りが点りました。 従って、今では秘境の温泉宿くらいでしか見ることの出来ない、灯油ランプだけの生活が続きました。 炎をカバーするガラスの筒(ホヤ)は子供の小さな手の方が磨き易いので、毎日、毎日、煤けたホヤを磨くのが日課でした。

島を離れる直前、宮乃浦川に架かる古い方の橋(勿論、新しい橋などあるはずもありません)の端から端まで電飾されて、まるでお祭り騒ぎになっていたことを思い出します。

☆ ☆ ☆

海の SL 8-20-09

未だ、"SL" と言う言葉も使われていず、蒸気機関車が現役で動いていた頃、筆者は "C57" の大ファンでした。 駅での長い停車時間を利用し、わざわざ前方の機関車のモデルを確認しに行っていました。 期待通り "C57" であれば、目立たないように小さくガッツポーズをしていた、小さな頃を思い出します。

今回は、鹿児島港から屋久島航路に就航していた、400 トンにも満たない小さな「橘丸」についてのお話しです。 戦時中と戦後に、太平洋で活躍(暗躍?!)した、あの「橘丸」ではありません。 林芙美子さんの「屋久島紀行」によると、往きは「照国丸」で、帰りに、この「橘丸」に乗船されているようですが、筆者にとっては、1950 年、屋久島に渡った最初の船が「橘丸」でした。 おそらく、屋久島を離れる時も同じ「橘丸」だったような気がします。

私より上の世代の方や "SL" ファンの方はご存じの通り、トンネルに入る合図の長い汽笛を聞くと、開けていた窓を一斉に閉める光景が浮かびます。 そして、白いシャツの襟にしっかりと黒い一本の線が出来てしまいます。 当時は、この煤煙が悩ましく、大半の乗客は、きっと、「この路線はいつから電化されるのだろう」と、考えておられたのではないでしょうか。

さて、この「橘丸」も石炭を燃料とした真っ黒い煙を噴き出す蒸気船でした。 "SL" が引く列車と同じように、デッキの手すりに触るだけで手は真っ黒になってしまいます。 それでもこの船に思い入れがあるのは、通常の船では船底のディーゼルエンジンから鼓動のように発する音があるのに対し、蒸気船には全くありません。 船室に入ると波の音も消えて本当に静かです。 ただ、石炭室に繋がるエンジンルームはとても暗く、チョッとおっかない思いがしたのを覚えています。

橘丸

この静かな船が穏やかな錦江湾を出て、大隅半島の突端、佐多岬に達するともう荒々しい外洋、文字通り「木の葉のように」揺れに揺れました。 最初の寄港地、種子島の西之表港で下船しても、まだ身体は揺れ続けていました。 その時食べた「塩せんべい」が美味しかったこと ・・・。 本当のところ、筆者の胃袋は「塩せんべい」しか受け付けなかったのです。

屋久島に住んだ 2 年間、何度も鹿児島を往復していますので、当時、就航していた定期船には殆ど乗っていると思います。 前述の「照国丸」、そして「十島丸」、「折田丸」などなど。 でも船内が静かだったのは、蒸気船の「橘丸」だけだったはずです。 次に、蒸気船を見たのは、20 年後、中国・広州の珠江上でした。 船体の割には大きな煙突から黒い煙を出す姿を見て、ふと屋久島での生活を思い出していました。

一番酷い経験は、鹿児島港近くの旅館で台風の通過を待って乗船した「十島丸」で、いつものようにデッキの上で荒れた海を眺めていました。 しかし、くだんの佐多岬沖で巨大な波のしぶきがメーンマストを越えるのを見た時は、さすがに気を失いそうになり、あわてて船室に潜り込みました。 それから、一晩、到着まで立ち上がることは出来ませんでした。 父の DNA を受け継いでいるようで、殆ど船酔いはしないのですが、上記の 2 回だけは完全にダウンです。

この「橘丸」は戦前から就航していたとのことですが、筆者が屋久島を離れた直後、入れ替わるように屋久島を訪れられた「玉川こげら」さんのブログにも、この船と当時の屋久島について書かれています。 「縄文杉」など話題にも上らない、取り残されたような一漁村・山村の風景がそこにありました。 又、鹿児島、屋久島間の交通機関の歴史についての記述も見つけ出しました。
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