海 外 ド ラ イ ブ

大地に吸い込まれてしまいそうな直線路、天空へ駆け上がるようなワインディングロード

グッとアクセルを踏み込んで進む、その先には ・・・

このブログのスタートは 5/18/06 付の「きっかけ」です。 海外ドライブの実用的な

TIPSは主に前半部分に集まりました。  ご参考になることでもあれば幸いです。

Bon Voyage & Safty Driving!

スポンサーサイト

--------------:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

〈番外〉追憶の屋久島

2009-12-20-Sun-00:03
- この項、「古き良き屋久島」をこよなく愛した今は亡き父に捧げます -

父との思い出

父の仕事とはいえ、一家で屋久島行きが決まった時、殆ど街暮らししか知らない筆者と母のことを父は本当に心配したのではないかと思います。

ガスも水道も、その上、電気も無い暮らしにさすがに母は適応するのが大変だったようで、不順な天候と相まって身体の調子まで狂わせてしまったようです。 しかし、小さかった筆者は何とか言葉も通じあえるようになり、直ぐに慣れてしまいました。

父は父で深山に分け入ったり(仕事です)、無理やり漁船に乗せて貰って漁師さん達と一緒に一晩の漁を楽しんでいたようですが、時間を見つけては筆者の相手をすることも忘れませんでした。

実のところ、当時「縄文杉」という言葉はありませんでした。 公式には「大王杉」が屋久島一の杉と言われていました。 勿論、その奥にはもっと大きな杉があることは知られていたのですが ・・・。

今は屋久島の山中に住む人などいないのですが、木材伐採の盛んな当時は、現場に分教場が出来るほど多くの人々が住み、働いていたのです。 海辺に住む私たち家族より、更に劣悪な環境と低賃金で暮らす人々がいることを、どうしても筆者に見せたかったようで、父に付いてそこを訪れたこともあります。 そこで分教場の先生が相手していただいたと淡く記憶しています。

前述した、島一周の船旅や、鹿児島、屋久島往復の船旅にも父について行きました。 夏の夜行便、静かな錦江湾では誰もいない甲板に大の字になって寝ころぶと、天空の全ての星が地上に降り注ぐのではないかと勘違いしそうです。 島内では、大好きな肉や魚を味噌に漬け、それをリュックで背負いハイキングをしたこともありました。 飯葢炊飯が面白く、わざわざお米まで焚いて食べたのも、屋久島が初めてでした。 その後、中学一年生から仲間とキャンプ、10代後半から趣味の登山へと繋がりました。

正直に申し上げ、筆者は未だ「縄文杉」を見ていません。 山の怖さを知る父は小さすぎる筆者を、そのような山中まで連れていくのがはばかられたのでしょう。 立場上、何か問題が起こった時、私的なことで他の方に迷惑をかけるのを避けたい思いがあったのかもしれません。

しかし、実際にはちょっと足を踏み入れるだけで、裾に広がる広大な広葉樹林、その後ろには鬱蒼たる杉林。 苔むした岩が剥き出しの大地。 陽だまりの枯れ葉の上には無数の杉ん子が ・・・。 それを見て父が「これだけ元気に目を出しても、積み重なった落ち葉で、決して根は大地に届くことはなく、みんな枯れてしまう」と話してくれたことを、これは鮮明に覚えています。

本当にラッキーな一握りの杉だけが、何千年もかかって、あの杉の巨木になるのです。

本年も、もう残り少なくなりました。 皆様には良いお年をお迎え下さい。 And, Merry Christmas!

☆ ☆ ☆

プライベート水族館 11-20-09

通学した小学校は、集落のある側と川を挟んで対岸にありました。 学校のすぐ裏は長く続く砂浜で、海亀の産卵場所でもあります。 何せ雨の多い屋久島ですから、滞在した 2 年間に「番傘」を何本買い換えたのか記憶はありませんが、台風の時など橋を渡り終える前にダメになってしまうこともあったはずです。

天気の良い日は、集落側の公民館前の広場が子供たちの集まる場所になっていました。 土地の言葉がうまく使えない転校生でも、いじめも無く迎え入れてくれ、日が暮れるまで遊び、騒いでいた記憶が残っています。 大半が漁師の家で、夜、漁に出る漁師は昼間が睡眠時間帯ですから本当に静かです。 子供たちの騒ぐ声だけが集落全体に届いていたはずです。

唯、筆者は島全体が素敵な遊び場なのにすぐ気付いてしまいました。 地元の子供たちからみると、いつもの何の変哲も無いところなのでしょうが、街中で生まれた私から見ると、まさしく冒険の国に思えたのです。 最初の頃はは地元の子が付き合って付いてきてくれたのですが、つまらないとみえて、結局は一人で遊ぶことが次第に多くなりました。

トロッコ道を遡って、もちろん、山中の作業現場まではたどり着けませんでしたが、前述の大きな吊り橋が折り返し地点で、ヤマモモ、野イチゴ、むかごを探し出して食べながら戻ります。 肉桂(シナモン)の木の皮を剥がして香りを嗅いだりしたこともありました。

年上の子供たちは、川で釣りあげたまるでウミヘビのように大きなウナギを長い棒に巻きつけて二人で担いで追い抜いていきます。 自然薯を掘り起こす子もいたのではないでしょうか。

山に退屈すると、今度は海です。 嵐の海は怖くて到底近づけませんが、凪いでいる晴れた日は、裸足の足裏は焼けつくように熱くても、身体には心地よい海風があたります。 砂浜はあまり変化が無くて直ぐに飽きてしまいますが、ゴツゴツした大小の岩が海に突き出している磯は大のお気に入りでした。

岩をひょいひょいと飛び歩き回ります。 岩の上から北を望むと、海の中に開聞岳が突き出しています。 大きな岩には、いろんな形をした窪みがあちこちにあり、どうしてこんな高いところまでと思える、てっぺんの窪みにもチャンと海水が溜まっています。 その窪み一つ一つが小さな海なのです。 海藻が根付き、ウニ、貝、それに魚まで泳いでいます。

窪み毎にいろんな種類の海の生物が住み着き、飽きることがありません。 熱帯魚の水槽よりもずっと大きな窪みを岩かげで見つけ出すと、誰にも話さず、一人でそれを毎日見に行くのが日課になっていました。

☆ ☆ ☆

牛が引くトロッコ 10-20-09

さて、乗り物の話に戻しましょう。 林芙美子さんの「屋久島紀行」にはバスの話が出てきますが、私にはバスの記憶など全くありません。 まん丸い島ですから、山を取り囲むように海岸沿いのデコボコ道だけはあったはずです。 その道も、今は広くなり、舗装され、川を繋ぐ橋も立派なものに付け替えられているようですね。

遠出をする時は「歩き」、それ以外の選択肢を考えたことは無かったように思います。 一度だけ、島をめぐる乗合船 - 船と言っても手こぎ船をちょっと大きくしたエンジン付きの木造船 - に乗せて貰ったことがあります。 シケているわけでは無かったのですが、外洋特有の巨大なウネリがありました。

船がウネリのてっぺんに来たら、まるで船は空に浮いたよう。 反対に、ウネリの底では、回りは海しかありません。 そのまま海中に吸い込まれてしまうかのような錯覚に陥ります。 乗り合わせた人たちは、よそ者の筆者と筆者の父を除き全員ダウン、到着までグッタリと横になっておられました。

当時、屋久島には鉄路が二つありました。 北の宮之浦起点のものと、南東部、安房から山中に入っていくトロッコです。 いずれも、巨木を切り出し、トロッコで運び、埠頭で景山丸に積み替えて鹿児島に向かっていました。 切り揃えられた大木は一本ずつトロッコに乗せられ、何台も繋がれて、それを牛が引っ張っていたのです。 こちらは小さかったので、見上げるばかりの牛がとても逞しく思えたのですが、今考えると、やはり "何とムゴイ - 虐待" だったのは間違いありません。

積み出しですから、確かに港までズーッと下り坂です。 でも、帰りは荷は無くなったとはいえ、又、何台ものトロッコを引いて山に戻るのです。 さすがに、この牛機関車はすぐにディーゼル機関車にとって代わりました。 ただ途中には路肩の弱いところもあったはずですし、山中の橋はみな「吊り橋」です。 最初に乗った運転手が「グラグラ揺れる吊り橋が本当に怖かった」と話されていたのを覚えています。

山はこの「吊り橋」から、海は波に洗われる磯までが筆者のプレイグラウンドでした。 これは、今考えると "何と贅沢な" ということになってしまいますね!

☆ ☆ ☆

屋久島縄文水 9-20-09

ボトル詰めの水に「屋久島縄文水」があります。 コンビニのチルドケースの中にこれを見つけたら、チョッと高いけれど、やはり買ってしまいます。 最初に手にした時、一口飲んで直ぐに、「この水は以前飲んだことがある!」と感じました。 改めて小さな字で表記されている採水地を確かめると、私が住んだ部落の地名がありました。 しかも「深井戸」の水です。

jomon_sui

住んでいた家のすぐ横に、大きな深い井戸がありました。 そこからつるべで汲み上げる水に 2 年間お世話になっていたのです。 「一と月 35 日雨が降る」と言われているこの島の地下には、川の水量より遥かに大量の伏流水が流れているはずで、この清廉な水を得るのに深い井戸が必要なのです。

小さい頃、短期間の島暮らしでしたが、しっかりとこの水の香り - かすかな山苔の香り - を覚えていたのです。 他のブランドの水は全く区別出来なくとも、「屋久島の味」だけは忘れることが無いのでしょう。

このように豊かな水があるのに、水力発電所すら無く電気がありませんでした。 島を離れることが決まった後、ようやく取水装置が稼働し電球に灯りが点りました。 従って、今では秘境の温泉宿くらいでしか見ることの出来ない、灯油ランプだけの生活が続きました。 炎をカバーするガラスの筒(ホヤ)は子供の小さな手の方が磨き易いので、毎日、毎日、煤けたホヤを磨くのが日課でした。

島を離れる直前、宮乃浦川に架かる古い方の橋(勿論、新しい橋などあるはずもありません)の端から端まで電飾されて、まるでお祭り騒ぎになっていたことを思い出します。

☆ ☆ ☆

海の SL 8-20-09

未だ、"SL" と言う言葉も使われていず、蒸気機関車が現役で動いていた頃、筆者は "C57" の大ファンでした。 駅での長い停車時間を利用し、わざわざ前方の機関車のモデルを確認しに行っていました。 期待通り "C57" であれば、目立たないように小さくガッツポーズをしていた、小さな頃を思い出します。

今回は、鹿児島港から屋久島航路に就航していた、400 トンにも満たない小さな「橘丸」についてのお話しです。 戦時中と戦後に、太平洋で活躍(暗躍?!)した、あの「橘丸」ではありません。 林芙美子さんの「屋久島紀行」によると、往きは「照国丸」で、帰りに、この「橘丸」に乗船されているようですが、筆者にとっては、1950 年、屋久島に渡った最初の船が「橘丸」でした。 おそらく、屋久島を離れる時も同じ「橘丸」だったような気がします。

私より上の世代の方や "SL" ファンの方はご存じの通り、トンネルに入る合図の長い汽笛を聞くと、開けていた窓を一斉に閉める光景が浮かびます。 そして、白いシャツの襟にしっかりと黒い一本の線が出来てしまいます。 当時は、この煤煙が悩ましく、大半の乗客は、きっと、「この路線はいつから電化されるのだろう」と、考えておられたのではないでしょうか。

さて、この「橘丸」も石炭を燃料とした真っ黒い煙を噴き出す蒸気船でした。 "SL" が引く列車と同じように、デッキの手すりに触るだけで手は真っ黒になってしまいます。 それでもこの船に思い入れがあるのは、通常の船では船底のディーゼルエンジンから鼓動のように発する音があるのに対し、蒸気船には全くありません。 船室に入ると波の音も消えて本当に静かです。 ただ、石炭室に繋がるエンジンルームはとても暗く、チョッとおっかない思いがしたのを覚えています。

橘丸

この静かな船が穏やかな錦江湾を出て、大隅半島の突端、佐多岬に達するともう荒々しい外洋、文字通り「木の葉のように」揺れに揺れました。 最初の寄港地、種子島の西之表港で下船しても、まだ身体は揺れ続けていました。 その時食べた「塩せんべい」が美味しかったこと ・・・。 本当のところ、筆者の胃袋は「塩せんべい」しか受け付けなかったのです。

屋久島に住んだ 2 年間、何度も鹿児島を往復していますので、当時、就航していた定期船には殆ど乗っていると思います。 前述の「照国丸」、そして「十島丸」、「折田丸」などなど。 でも船内が静かだったのは、蒸気船の「橘丸」だけだったはずです。 次に、蒸気船を見たのは、20 年後、中国・広州の珠江上でした。 船体の割には大きな煙突から黒い煙を出す姿を見て、ふと屋久島での生活を思い出していました。

一番酷い経験は、鹿児島港近くの旅館で台風の通過を待って乗船した「十島丸」で、いつものようにデッキの上で荒れた海を眺めていました。 しかし、くだんの佐多岬沖で巨大な波のしぶきがメーンマストを越えるのを見た時は、さすがに気を失いそうになり、あわてて船室に潜り込みました。 それから、一晩、到着まで立ち上がることは出来ませんでした。 父の DNA を受け継いでいるようで、殆ど船酔いはしないのですが、上記の 2 回だけは完全にダウンです。

この「橘丸」は戦前から就航していたとのことですが、筆者が屋久島を離れた直後、入れ替わるように屋久島を訪れられた「玉川こげら」さんのブログにも、この船と当時の屋久島について書かれています。 「縄文杉」など話題にも上らない、取り残されたような一漁村・山村の風景がそこにありました。 又、鹿児島、屋久島間の交通機関の歴史についての記述も見つけ出しました。
スポンサーサイト

COMMENT



コメントの投稿

HOME
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。